『東日本大震災の日の私』

本日は、『東日本大震災の日の私』というお話です。

震災1周忌、改めて亡くなられた方のご冥福と、
震災に遭われた方へお見舞い申し上げます。

今日でとうとう、一年が過ぎたのですね。
流石に、この話題を外してはなりません、日本人として。

震災から一月が経った日にブログを再開し、今日まで続いてます。
震災にまつわる投稿も過去何度かしました。
<参>http://d.hatena.ne.jp/yypjt/20110412
<参>http://d.hatena.ne.jp/yypjt/20110511/p1
そして、また今日、この震災の話題にふれさせて頂きます。

その日私は南京へ出張していました。
宮城県の角田に本社のある会社の購買大会参加の為。

最初の情報は、大きな地震が起きた!という話。
ネットでチェックすると、カナリ大きな地震があったという内容が。
でも、他には何も情報はなし。
そして、慌てて実家へ電話をするも、
何度電話してもつながらず、
ようやく弟の携帯につながって状況を聞くと、
『大丈夫』という一言。
良かったと安心したのを覚えています。

ただ、この地震の被害がどれだけのものだったかは、
想像出来なかったのでした。

参加した購買大会は、宮城県の角田の会社ですので、
地元出身の方が駐在されていたり、出張されていたり、

当然、家族は日本に残されているわけです、
しかも連絡が繋がらない方も。

『大丈夫』と言う一言が聞けた自分は良いですが、
それが聞けなかった方は、相当心配したはずです。

購買大会が終わり、上海へ戻り、地下鉄で移動中、地下鉄の情報TVに。。。
ホント、意味が分かりませんでした。
何かの映画の予告???
地下鉄のTVニュースですから、音は出てません。
津波の映像の下に日本の大津波と書いてあるだけ。
『嘘だ!』と思った瞬間に実家へ連絡、、、繋がりません。。。
誰にも繋がらない。
丁度、夜10時半頃、日本時間の11時半頃でした。

まだ、信じられなくて、カミさんにすぐ連絡。
テレビをつけて、何が起こっているか確認してくれと指示。

丁度、日本の番組が見れるようになっていたので、
すぐに震災の状況がみれる状態に。
映像をみたカミさんは、、、
『何なのこれ!何があったわけ!!』
そう聞かれても、状況が全く分からない自分は、
まず、じっくり見て、何が起きているか確認して欲しい、
分かったらすぐ連絡をして欲しいと告げ電話を切り、
自分もすぐにPCを開いて可能な限りニュースのチェック、
同時に携帯電話で更に家族へ電話を掛け続ける。

それでも、事態はどうなっているのか把握が全然出来ず、
最終的に自宅に着いたのは23時過ぎ。
そこから、ずっとTVと睨めっこして、電話を掛け続け、
やっとの事で、母ちゃんと繋がった。

ガス欠で動けない弟へガソリンを運び、
その後、帰宅難民の親父をPickUp完、
そして、同じく帰宅難民の妹を迎えに行く途中でした。
どうやら、無事だったようですが、妹には出会えていない状況、
その後、6時間ほど歩いた妹と合流し夜中に何とか戻ったよう。

実は、3/13は面接の為日本への一時帰国予定だったので、
その話を改めて細かく聞く事が出来たのでした。

丁度、停電と交通規制が始まる直前でしたが、
14日に上海に戻る時には、成田までの交通手段が無く、
相当、走り回った記憶があります。
最後は、東京駅からの空港バスがあるのを見つけ、
何とか戻れたのでした。

あの時思ったのは、
 離れている
 情報が無い
 連絡がつかない
って怖いという事。

被災地はもっと大変な状況だったと思います。
それでも、全く盲目的な状態では、本当に心配したのを覚えてます。
何とか、連絡が出来る状況を作り上げておきたいと思ったのでした。
今はまだ出来てないんですが、、、(汗)
改めて、決め事をしておこうかなって思います。
さてさて、何にしようか。
ネット上の伝言板を活用する形が良いかもしれません。

という事で、あの日の私が何をしていたか?
自分の記憶を風化させない意味でも書いてみました。


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編集後記

今日は、造伍結成1周年会を昼間っからやります。
久しぶりに8人全員集合!(のはず)
これから、また各自出来る事をしっかり、加速でやる事となるかと。
さぁ、自分は日本から何が出来るのだろう?
そんな事も含めつつ、話をしていきたいと思います。

遅寝○⇒もう3時近いです(汗)、絶対早起きは無理!

起きたら、自分の荷物を選別しなきゃ。
日本に持ち帰るもの、持ち帰らないもの。

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